海外の映画俳優・女優のプロフィール、デビュー映画、代表作、DVD,私生活などの情報です。
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女優
The Internet Movie Database(英語)映画俳優・女優の英語名を入力。画像・出演作等情報多数有り
☆生年月日・出身:
1926/6/1-1962/8/5 、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンジェルス
☆俳優タイプイメージ:
個性派、コミカル、ロマンス、シリアス
☆僭越ながら一言:
もう2度と現れないタイプの女優。時代とマリリンの個性がそれを可能にした。華やかな表舞台とは裏腹に私生活では恵まれていない。
☆マリリン・モンローの俳優としてのエピソード・略年表など:
身長166.4cm 体重53.5kg B94 W61 H86、血液型AB型。
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。
50年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」。モンローという芸名は彼女の母親の姓。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)。
トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。
アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:モーテンセン、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されている。しかし彼女の母グラディス・モンローは「あなたのお父さんはベイカーよ」とノーマに告げていたとされ、ノーマ自身もそう信じていたため、女優になってから、「本名は?」と質問された際には「ノーマ・ジーン・ベイカーです」と答えている。
マリリン・モンローは孤児だったと書かれているものがあるが、母親がいるので孤児ではない。英語の「孤児(orphan)」が片親が居ない場合にも使われることからくる誤訳。
母親は精神病を患っていた。
ロサンゼルスの孤児院へいれられる。
その後、伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られた。当時の大統領の政策で、里親にはいくらかの補助金が支給されたため、お金目当てで子供を引き取る家も多くあった。いくつもの家をたらい回しにされたり、大事に扱われなかったりした。
マリリン・モンローには異父姉妹の姉がいる。姉はマリリン・モンローの葬儀に参列している。
モデルになる。所属していたモデル会社の名は、「ブルーブック・モデルズ・エイジェンシー」。ブルーブックとは、いまでいうアダルト本のこと。マリリンがヌードになったのも事実。
51年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で「アスファルト・ジャングル」「イヴの総て」に出演、注目を集める。
以後、数本の映画に脇役で出、52年の「ノックは無用」で初主演。
53年「ナイアガラ」での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性を釘付けにする。
続く「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」「七年目の浮気」が大ヒット、してトップスターになる。
セックスシンボルを脱したかったマリリンは、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受ける。マーロン・ブランドと「欲望という名の電車」を演じ好評を博したことは彼女に自信を与えた。
62年、映画「女房は生きていた」の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。
5月(亡くなる3か月前)には、マディソン・スクウェア・ガーデンで催されたジョン・F・ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティー(司会は俳優ピーター・ローフォード(ケネディの妹の夫))で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌い、「いつ死んでも悔いはない」とケネディに言わしめた(ケネディは翌年凶弾に倒れる)。
「女房は生きていた」の主役は降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。
62年8月4日、ロサンジェルスの自宅で死亡しているのが発見される。享年36歳。死の直後、マスコミでは死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。
80年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が有力となる。根拠は、現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、電話局には通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。
ジョン・F・ケネディ大統領と不倫関係にあったことが死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのがマフィアに関係している人物であったことが、この謀殺説を後押ししている。
マリリン・モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口常富。彼は日本人である。
墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。死後、元夫ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられていて、今もバラが絶えない。
私生活では、16歳で、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚。4年間で離婚。
54年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月。
56年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚する。57年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもする。アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性人格障害と診断されたが、正確なところは不明。
61年にアーサー・ミラーと離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。同年に封切られた映画「荒馬と女」の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。
マリリン・モンローMarilyn Monroeの公式サイト
☆マリリン・モンローの主な映画等出演作:
1948年「嵐の園」「DANGEROUS YEARS」「LADIES OF THE CHORUS」「ラブ・ハッピー」
1950年「彼女は二丁拳銃」「アスファルト・ジャングル」「イヴの総て」「RIGHT CROSS」「THE FIREBALL」
1951年「HOMETOWN STORY」「AS YOUNG AS YOU FEEL」「LOVE NEST」「結婚しましょう」
1952年「CLASH BY NIGHT」「WE'RE NOT MARRIED」「ノックは無用」「モンキー・ビジネス」「人生模様」
1953年「ナイアガラ」「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」
1954年「帰らざる河「ショウほど素敵な商売はない」
1955年「七年目の浮気」
1956年「バス停留所」
1957年「王子と踊り子」
1959年「お熱いのがお好き」
1960年「恋をしましょう」
1961年「荒馬と女」
☆マリリン・モンローの死後の映画等:
1974年「妖艶美女大全集/銀幕の女神たち」
1987年「ハリウッドからの遺言/銀幕スター謎の生涯」
1990年「マリリン・モンロー/ラスト・シーン」
1994年「マリリン・モンロー/ライフ・アフター・デス」「モンタン、パリに抱かれた男。」
1995年「マリリンとアインシュタイン」
1996年「ALL MY LIFE~マリリン・モンロー~」
2001年「マリリン・モンロー ファイナル・デイズ」
2003年「誘惑のシネマ 究極のSEXシーン」
2004年「MARILYN'S MAN マリリンズ・マン ~マリリン・モンローの真実~」
☆マリリン・モンローの主な映画等出演作のDVD☆






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